新世界へ

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/00

 ある雨の日のこと。
 俺はハルヒと分かれた後、濡れるのにもかまわず帰路を歩いた。家に帰ったらすぐに風呂に入らないといけない。夕食はできているだろうか。
 もう夕方と呼べる時間帯はすぎてしまった。電灯がこの暗い道を照らしてくれている。
 雨は一向に止む気配がない。早く帰ろう。そう思って、少し早歩きした。
 そろそろ家が見えてくる。
 そのとき、暗闇の中から誰かが歩いてきた。そいつは俺の家より先の道から、こちらに向かってやってくる。
 ちょうど、家の前で俺たちは出会った。
 俺は、そいつが家の前で止まったので、不審に思った。
 何かうちに用でもあるのだろうか。そう思い、声をかけようとしてさらに近づいた。こんなとき、普通は不審者に近づくべきではない。だが、俺はそんな事まったく考えずに行動した。
 そいつは、北高の制服を着ている。俺は服から上に目線をやった。
 雨に濡れた顔が見えた。
 よく、知っている顔だった。

 その顔からは、あまり表情が読み取れなかった。
 強いて言うなら、微笑んでいたような気もするが。
 人によっては、悲しそうな表情だ、と思うかもしれない。



/01

 その日、涼宮ハルヒはいつものように席についていた。
 無愛想な顔で頬杖をつき、窓の外を見つめている。すると、前の席で椅子の下がる音がした。
 ハルヒは前をちらりと見ることもなく、ポツンと告げた。
 「遅かったじゃないの。もうチャイム鳴るわよ」
 「ああ悪い、今日は少し朝食に時間がかかったんだよ」
 男はそう言うと席に着き、後ろを振り返った。それに対し、ハルヒは微動だにせず答える。
 「何よ、キョンのくせに。あんたは私より早く来なきゃだめなのよ」
 「はは、そうだな。悪かった、今度から気をつける」
 ハルヒはそこで初めて、男のほうを見た。
 男は、どことなく微笑んでいるようにも見えたが、いつもと変わらない顔だった。
 「どうした?」
 「何でもない」
 ハルヒはまたそっぽを向いた。
 教員が、ガラガラとドアを開き、教室に入ってきた。
 また、何事もないように朝のホームルームが始まる。
 その男――キョンは、やれやれ、というような顔で前を向いた。



/02

 一月。まだ冬休み明けでまもない頃、キョンは文芸部室の前にやってきた。部屋の中からはハルヒの調子に乗った声と、別の少女の悲鳴が聞こえる。
 キョンは一瞬躊躇ったように見えたが、ドアを開いた。
 中では、ハルヒがペンを持って朝比奈みくるの顔に落書きをしていた。
 「何やってんだ?」
 「あ、キョン、遅いじゃないの! 今ね、みくるちゃんの顔に落書きしてるの。あんたも押さえるの手伝ってよ」
 「いや、それは無理だ。何でそんなことしてんだ?」
 「さっき、トランプでみくるちゃんが負けたの。だからこれは罰よ」
 ハルヒがそういうと、みくるは首を横に振って抵抗した。
 「きょ、キョンくん助けてぇ〜」
 「ま、罰なら仕方ないですよ、朝比奈さん」
 ハルヒは抵抗するみくるを押さえ、20秒ほどで落書きを終えた。みくるの顔には猫のようなヒゲが、顔の左半分と右半分にそれぞれ3本、計6本ほど書かれていた。
 「よし。じゃあ、2回戦やるわよ! キョン、もちろんアンタもやるわよね?」
 「ああ、当然だ。長門も入らないか?」
 キョンは、長門有希の方を見た。窓辺のパイプ椅子に腰掛けた長門は、先ほどからずっと、キョンを見つめていた。
 「そうね、有希も入りなさい」
 「長門、やろうぜ?」
 長門は少し時間をかけて、コクン、と頷いた。
 ハルヒは慣れた手つきでトランプをシャッフルした。
 「四人でスピードやるわけにもいかないから……そうね、大富豪やりましょう」
 「何だ、さっきはスピードやってたのか。それじゃあ朝比奈さんが負けるのも当然だ」
 「キョンくん、ひどい〜」
 「私は別に、スピード以外でも勝つ自身があるわ」
 ハルヒが自信満々に答えたとき、ドアが開かれ、また別の人物が入ってきた。
 「おやおや、皆さん、楽しそうですね」
 古泉いつきがいつものスマイルで中に入ってきた。
 「よう古泉」
 「あら、小泉君。あなたもやる?」
 「もちろん、是非参加させてください」
 「じゃあ、5人分ね」
 ハルヒはそういうと、トランプを配り始めた。
 そして、その日はSOS団にしては珍しく、全員でトランプをやった。



/03

 長門有希はコンビニの中へと入っていった。
 「いらっしゃいませ〜」
 元気よい店員の声がした。
 長門はかごをとると、まず、日用品コーナーに向かった。そして、青い歯ブラシを一つ掴み、かごの中に入れた。彼女は次に、野菜たっぷりのサラダと鮭フレークの缶詰を選び、かごに入れた。
 レジに行く途中、長門はドリンクコーナーで足をとめた。暫く眺めたあと、小さなパックの牛乳を入れ、レジに向かった。
 「カードはお持ちでしょうか?」
 「……ない」
 「お作りいたしましょうか?」
 「いい」
 「では、お会計、1239円です」
 長門はどこからか1500円とりだした。
 「では、1500円からあずからせていただきます。――それではこちら、お釣りのほう、261円です。ご確認ください」
 「レシートのご利用は……」
 長門は否定の仕草をすると、お釣りをちゃんと確認し、コンビにを後にした。
 「またのご利用をお待ちしております」
 長門はそのまま、住んでいるマンションへと向かった。
 暫くしてマンションに着くと、長門は玄関口でパスワードを入力し、ガラス戸を開けた。エレベーターに乗り、七階に着くと、708号室の前で足をとめた。
 ――長門はドアを開けた。
 中からは、美味しそうなカレーの香りがした。
 「おう、長門、帰ったか」
 長門は、荷物を置くと、台所に向かった。
 「俺、料理とかあんあまりしないからな。でもまあ、それなりに努力はしたみた」
 キョンがエプロンをしてカレーをつくっていた。
 「……そう」
 長門はじーっとキョンを見つめた。キョンは長門の視線に気づき、振り向いて言った。
 「もうすぐできるから、座っておいてくれ」
 長門は冷蔵庫に食品を入れると、おとなしく座った。
 暫くして、キョンがカレーの器と、スプーン、お茶をそれぞれ二つずつ運んできた。
 「まあ、自信は結構あるぜ。なにせ力作だからな。とりあえず食べてみてくれ」
 長門は頷くと、スプーンでカレーを口に運んだ。
 「どうだ?」
 「……美味しい」
 「そうか、そりゃあよかった」
 「……ありがとう」
 キョンは長門の顔を見た。彼女はやはり無表情だったが。
 「いやなに、俺のほうこそ礼を言うべきだ。迷惑ばっかりかけちまって」
 長門は首を振った。
 「別にいい」
 その後、キョンと長門は無言でカレーを食べた。二人が食べ終わって暫くすると、キョンが言った。
 「それで、どうだった? 何か問題はあったか?」
 「何も」
 「じゃあ、皆は――」
 「大丈夫。それに、何かあったら私が対処する」
 「そうか。ありがとよ」
 長門はお茶を飲むと、立ち上がった。それにつられ、キョンも立ち上がる。
 「長門、後片付けは俺に任せてくれ」
 「私も手伝う」
 「ん……そうか、分かった。じゃあ洗った皿を拭いてくれないか?」
 「分かった」
 二人は時間をかけて後片付けをした。



/04

 午前中の授業の終了を告げるチャイムが鳴る。
 昼の休憩時間になるとすぐに、キョンはハルヒに話しかけた。
 「なぁ、ハルヒ。最近面白いことあったか?」
 「面白いことって、どんな?」
 「えーと、映画でも、ドラマでも、本でもいいから。とにかく興味を惹かれたものはあるか?」
 「そうねぇ……特にないわ。つまんないのばっかり」
 キョンは眉間に皺をよせて何かを考えていた。
 「…………そうか」
 ハルヒがキョンを見つめて言う。
 「何よ、どうかしたの?」
 キョンはあわてて言った。
 「あ、いや、なんでもない」
 「それより、あんたこそ面白いことないの?」
 「もちろんないな。あったらお前に紹介してる」
 「……あっそう。でも、それもそうね」
 キョン深く頷いた。
 「ああ」
 ハルヒは椅子を下げて、大きく背伸びしながら言った。
 「もう……何であんなにつまらないドラマがつくれるのかしら。私の方がよっぽど上手に作れるわ」
 「そうだな。だがまあ、やってみないと分からん」
 「何言ってるの、映画作ったじゃない。私の実力はもう皆に知れ渡ってるわ」
 キョンは少し戸惑ったようだった。
 「え――あ、いや、ドラマの話だよ。その、いくら映画は上手くつくれても、ドラマだとどうかわかんないだろ?」
 「ふん。ドラマも映画も同じようなものよ。時間の長さの違いでしょ。」
 「……そんなことはないと思うぞ」
 「じゃあ何? 映画館で上映するかどうかの違い?」
 「それは――」
 「そうね。それもいいかもしれない」
 「は? 何が?」
 キョンには何のことか分からなかったようだ。
 「ドラマよ。今度はドラマ作るのも面白いかもしれないわ」
 「……まあ、いいんじゃないか」
 「そうよね? じゃあ今度、時間あるときに私がシナリオ考えとくわ! 朝比奈ミクルの冒険・ドラマバージョンよ!」
 キョンは一瞬呆気にとられたようだったが、やがて笑って言った。
 「はは、そうか。頑張ってくれ」



/05

 その日の放課後。
 キョンと古泉はマグネットの五目並べをしていた。長門は例の如く本を読み、みくるは何もせずに座っている。
 キョンがお茶を啜った。カラスの鳴き声が聞こえる、穏やかな午後。
 その空間を切り裂くように、ドアが乱暴に開かれた。
 「明日、映画に行くわよ!」
 部屋の中にハルヒの声が響き渡った。
 古泉が、冷静に答える。
 「何の映画ですか?」
 「SFもので、タイトルは“新世界へ”っていうの! 結構有名らしいけど、皆知らない?」
 キョンが小さな声で呟いた。
 「そうか、なるほど……」
 ハルヒはキョンの目の前まで来て言った。
 「キョン、あんた知らないの?」
 「さあ、俺は聞いたこともないな」
 「古泉くんは?」
 「はい、噂に聞いたことはあります。あまり宣伝はしてないんですが、ネットや口コミで広がったようです。かなり評判はいいみたいですね」
 「そうよ。私も昨日パソコンで見たんだけど、すっごい面白そうなの! 皆、明日はもちろん空いてるわね?」
 「僕は大丈夫ですよ」
 「あ、あの……私、友達と遊ぶ約束が……」
 「断りなさい。有希は空いてる?」
 長門は顔を上げて、肯定の仕草をした。
 ハルヒは団長席の前までつかつかと歩き、そして振り返って言った。
 「よし、じゃあ明日は――」
 「待ってくれ!」
 部屋がシーンと静まった。
 SOS団のメンバー全員がキョンの顔を見た。
 「何よキョン、文句でもあるの?」
 「あ、いや、別にそういう訳じゃないんだが……」
 「あっそう。じゃあ、決定ね! 明日は駅前に11時半集合。遅れたら置いていくわ、いいわねキョン?」
 みくるが心配そうにキョンの顔を見る。
 キョンは溜息をついて言った。
 「分かったよ」



/06

 「それで、明日は映画に行くことになったわけか」
 長門が頷く。
 「そう」
 長門のマンションの7階、708号室。二人はお茶を飲みながら話をしていた。
 キョンがお茶を啜る。
 「えーと、集合時間は……」
 「午前11時半」
 「映画は何時にあるんだ?」
 「12時10分の予定」
 キョンが長門を見る。
 「それまでに入られたら――」
 「アウト。目標の達成は叶わない」
 「ということは、とにかく時間までにハルヒが入らないようにすればいいのか?」
 長門は少し考える。
 「基本的にそう。でも、できるだけ早く諦めさせることが重要」
 「何でだ?」
 長門は、今度は少し長めに考えて、言った。
 「私にも詳しい事情は分からない。彼だけが知っている」
 「そうか、その辺は後でたっぷりと聞かせてもらおう」
 長門は深く頷いた。
 二人は黙ってお茶を飲んだ。
 少し時間がたってから、突然長門が口を開いた。
 「あなたに頼みがある」



/07

 午前11時半。駅前には、ハルヒ・みくる・長門・古泉の4人がいた。
 ハルヒは柱にもたれて貧乏ゆすりをしている。
 「おっそいわねぇ、あいつ。何やってんのかしら……」
 腕組みをしている古泉が言った。
 「彼が集合時間に遅れるなんてことは、今までにありませんからね」
 「まったく信じられないわ」
 「もう一度電話してみてはいかかですか?」
 「そうね。これで、でなかったら先に行きましょう。」
 ハルヒはキョンの携帯に電話をかけた。
 「どうですか?」
 ハルヒは暫く黙っていたが、唐突に言った。
 「ダメ、でない。あいつは団員失格だわ。皆、行くわよ」
 みくるがハルヒと古泉を交互に見る。
 「え、あ、あのぉ、いいんですか、キョンくんは……」
 「もう時間を5分もオーバーしてるのよ。それに、後で映画館に来るようメール打っとくから」
 古泉が再び口を開いた。
 「そうですね、まだ上映まで時間がありますので」
 「は、はい。分かりました」
 「じゃあ、有希、行くわよ!」
 長門がハルヒに向かって頷く。
 そして4人は、一足先に映画館へと向かった。



/08

 ちょうどその頃、キョンは公園の近くを走っていた。度々、後ろを振り返っては、追っ手が来ていないことを確認する。
 キョンの目の前には階段がある。キョンは息も途切れながら、追っ手を撒くために、その大きな木に囲まれた階段を登る。
 それは、まるで神社に続く階段のようだ。
 キョンはただ走った。
 階段の踊り場にさしかかったとき、キョンはその足を止めた。

 キョンが目指すその先には、一人の男が立っていた。
 黒いスーツに、白い手袋が目立っている。

 男が低い声で言う。
 「これ以上好きにさせるわけにはいかない。同行願おうか」
 キョンは一歩下がった。
 「はは、冗談だろ?」
 男は一歩前へでて言った。
 「お前がやろうとしていることは、世界の破滅を招くのだぞ?」
 「やってみないと分からない」
 「犯罪行為をか?」
 キョンは手に汗を握っている。
 「お前だって似たようなもんさ。ここへ来た時点でな。」
 「どっちにしろ、お前はもう何もできない。――ここで私たちに捕まるのだからな!」
 男は突然近づいてきた。
 男の手がキョンの服に触れそうになる瞬間、キョンは後ろを向き、階段を駆け下りた。
 ドン。
 ――――そこで、一人の男にぶつかった。
 「な――」
 後ろには、もう一人男がいたのだ。
 「状況の判断が甘い。そう簡単に逃げられると思ったのかい?」
 二人目の男がキョンの襟首を掴んだ。
 「……っ、放せっ!」
 「ゲームセット。僕たちの勝ちだ。……君は彼女を止められなかった」
 「ま、まだ間に合う! 放せよ! 俺は――」
 「もう無駄だ」
 前にいた男もやってくる。
 「現在の時刻、12時15分」
 「そんな……」
 「どうやって止めようと思ったのかは知らんが、映画は始まった。もう諦めることだな」
 「そうだよ。こんなことやっても、結局何も変えられない」
 キョンが男の手を振りほどく。
 「お前ら、このままでいいのかよ! このまますっと、あの世界で……」
 「それが、運命だよ。僕たちに変える資格なんてない」
 「…………」



/09

 ハルヒたちは人ごみをくぐり抜け、映画館へ向かった。小さな道から大通りへでて、右に曲がったらすぐだ。
 4人は窓口で映画館のチケットを買うと、エレベーターで4階へ上がった。扉が開くと、目の前にはたくさんの人が並んでいた。
 「何よ、結構多いじゃない!」
 映画館は比較的小さく上映映画も2本だけなのだが、それにしては人が多い。
 「まだ公開して3日目ですからね」
 古泉はにこやかに言った。3人は列の最後尾に並んだ。
 「あ、そうだわ。キョンにメール打っときましょう」
 ハルヒは近くの壁にもたれて、メールを打った。彼女はすぐに打ち終わると、辺りを見回していった。
 「ねぇ、有希は?」
 古泉も辺りを見回した。
 「あれ、おかしいですね。さっきチケットを買ったときはいたんですが」
 「もしかして、トイレじゃないですかぁ? 私、見てきますね」
 と言って、みくるは近くの女子トイレへ向かった。しかし、すぐに戻ってくると、ハルヒと古泉に向かって首を横に振った。
 「いないみたいです……」
 「ちょっと、有希までいなくなるなんて。一体どうしたのかしら?」
 ハルヒも首をかしげる。そのとき、人の列が少しずつ動き始めた。
 「おや、もう入れるみたいですね」
 「きょ、キョンくんと長門さんはどうするんですか?」
 「もういいわ、行きましょう」
 ハルヒはみくるの手を引っ張って歩き始めた。
 「あっ……」
 「仕方ないですね」
 古泉もそれについていく。
 3人はすこしづつ正面の扉へ近づいていった。
 「チケットを拝見いたします」
 バイトの人がチケットの確認をしていた。
 ハルヒがズボンの右ポケットからチケットを取り出し、渡そうとした、ちょうどそのとき――

 扉の中からキョンがでてきて、ハルヒの腕をしっかりと掴んだ。



/10

 「な――」
 キョンはそのままハルヒの腕を掴んで歩き出した。みくると古泉はただ傍観している。
 「何やってるのよ、あんた!」
 「いいからついてこい」
 「ちょっと、一体どういうこと? 何であんたが中からでてくるわけ?」
 キョンは黙って階段を下りる。ハルヒは腕を振り解こうとしたが、キョンの手は案外強く握られていて、それができなかった。
 「放しなさいよっ! 映画が始まっちゃうわ!」
 2階の踊り場辺りで、漸くキョンは手を離した。
 「あんた一体何がしたいの!」
 ハルヒは本気で怒っているようだった。
 「ハルヒ、この映画は見るな」
 「え――」
 キョンはハルヒの肩に手を置こうとした。ハルヒはその手を乱暴に払う。
 「――何で? どうしてよ、意味が分からないわ! 私が行ったらいけない理由でもあるの!」
 「理由は俺にも分からない」
 「っ、アンタいい加減に……」
 ハルヒはキョンのネクタイを掴もうとした――が、その前にキョンの手がハルヒの手首を掴んだ。
 「悪いな、これは俺との約束なんだ」
 「…………」
 ハルヒは言葉もなくキョンを睨んでいる。キョンはさらに続けた。
 「この映画の主人公は、壊れてしまった自分の世界を直すため、異世界へ行くんだ。でも最後は結局、自らの手で元の世界を破壊してしまう。そして消えていくんだ――――どうだ、これでもまだ映画を見たいか?」
 ハルヒはまだ睨んでいたが、やがて溜息をついて言った。
 「……そこまでして私を止めたいの?」
 「そうだ」
 「あっそう、もういいわ。最初は見逃したし、オチも知ったし」
 キョンは少しばかり驚いた様子だ。
 「本当にいいのか――?」
 「そんだけ言うんなら、何か意味があるんでしょ」
 「ハルヒ……すまない」
 「いいって言ってるでしょ! それより、今回の分、あとで埋め合わせてもらうからね!」
 「……ああ、何でも言ってくれ」
 ハルヒはさっさと階段を下りていった。キョンも暫くして、それについて行った。

 ――――現在の時刻、12時15分。



/11

 キョンは一人の男に腕を捕まれていた。キョンはもう、逃げようとする気もないようだ。手袋をはめている方の男は、なにやら携帯電話らしきものに向かって怒鳴っている。
 男は携帯を切ると、もう一人に言った。
 「……そいつはもう、放していい」
 キョンを掴んでいた手が放される。キョンは急いで2、3歩後ろへ下がった。
 キョンは手を掴んでいた方の男を見る。黒く長い、肩まである髪。その男は、手袋の男に言う。
 「どうしたの?」
 「……どうやら空間に歪みが発生したようだ。同心円状に広がっている。現在の半径、約7.3キロメートル。」
 長髪の男は驚いた様子でキョンの方を見た。
 「そんな! 僕はずっとこの子を捕まえていたのに。だったら、どうやって――」
 「多分――この世界の住人が変えたのだろう」
 「この世界の……」
 二人の男はキョンの方を見る。手袋の男が言った。
 「お前が、協力を要請したのか?」
 「…………違う。俺は何も頼んでない」
 「そんなはずはない、なぜなら――」
 キョンは男の言葉を途中で遮る。
 「多分、知ってたのさ、あいつは。知ってて、俺に協力してくれたんだ」
 長髪の男も会話に入ってきた。
 「あいつ? あいつって誰?」
 「俺の知り合いの――――宇宙人だ」
 「……何なの、そいつは?」
 「お前らはきっと分からないさ。向こうの世界では普通の人間だったから」
 「意味が分からないなあ」
 「説明しても無駄なんだよ。俺も初めて知ったわけだし」
 「どういう――」
 そのとき、手袋の男が長髪の男を後ろへ引っ張った。
 「もういい、帰るぞ」
 「えっ……帰るって、この子はどうするの?」
 「放っておけ」
 「……いいの? もしかしたら、これから何かするかもよ?」
 手袋の男はキョンをちらっと見ると、歩き出してから言った。
 「もうこちらにいられる時間も長くない。こいつも勝手に戻ってくるだろう」
 「それはそうだけど――」
 「命令だ。あちらの世界を優先しろ」
 「っ、……分かったよ」
 長髪の男は急いで手袋の男に追いつく。そこで、後ろを振り返って言った。
 「もし向こうの世界に何かあったら、君のせいだよ」
 二人の男はやがて見えなくなった。
 キョンはただ、誰もいない階段を見つめていた。



/12

 日が沈み、もう少しで夜がやってくる。俺は一人、窓の外を眺めていた。
 ここは、学校だ。いつもの俺のクラス。だが、そこはどこか違って見える。時間のせいだろうか。……いや、俺の気持ちの問題かもしれないな。
 俺は時計を見る。――そろそろ時間だ。もうすぐあいつらがやってくるだろう。
 ここを待ち合わせ場所にしたのは、あいつがそう指定してきたからだ。俺は別に、駅前でも、長門のマンションでどこでもよかった。多分あいつには、学校に何か思いを寄せるものがあったのだろう。だから俺は何も言わずにそれに従った。

 ――――そう、きっと理由があるのだろう。俺が言ったことなんだからな。

 足音が聞こえる。多分、二人の。少しずつ近づいてくる。…………ああ、今、ドアの前に――
 ガラガラとドアが開かれる。

 俺は二人の顔を見た。
 そこには、長門と――俺、もう一人の俺が立っていた。

 「待たせて悪かったな」
 その、もう一人の俺――ここでは紛らわしいから、仮にジョンとでもしておくか――は、そう言うと、歩いて俺の前までやってきた。長門もそれに続いた。
 ジョンが言う。
 「この学校、懐かしくてさ。こっちの世界にもあるとは思わなかった」
 「……そうか」
 ジョンは近くの机の上に座った。
 「悪かったな。色々つき合わせて。それに――ハルヒを止めてくれて」
 「ああ、あれは……長門に頼まれたんだ。俺が自分からしようと思ったわけじゃない」
 「そうか……長門は、全部分かってたんだな?」
 ジョンが長門の方を見る。長門は、ゆっくりと頷いた。俺はジョンに言った。
 「なあ、そろそろ教えてくれないか。こっちの世界へ来た理由」
 「……ああ」
 ジョンは立ち上がると、近くの窓を開けた。
 「……俺は、お前と違う世界の人間だってことは、もう知ってるよな」
 「分かってる。細かいことはいいぜ」
 「そうか。じゃあ手短に話すぞ。俺は、自分の世界を修正するためにやってきたんだ」
 「――修正?」
 「そうだ、修正だ。俺の世界は、ある地点を境に違う方向を向いてしまった。色々と調べた結果、俺はその原因がここの世界にあることを知った。それでやってきたんだ」
 「その原因というのは――ハルヒか」
 ジョンは大きく頷く。
 「それも、ハルヒが映画を見たことに関係がある」
 「…………」
 俺は少し首を捻った。
 「ちょっといいか?」
 「何だ?」
 「つまりお前が言いたいのは、俺の世界のハルヒのせいで、お前の世界が変わったってことだろ?」
 「そうだ」
 「だったら、お前の世界のハルヒはどうなんだ? 関係ないのか?」
 俺にとっては重要な疑問なのだが、ジョンは即答した。
 「俺の世界のハルヒは、俺が知る限り普通の人間だ」
 俺は少し以外だった。どこの世界でもハルヒは変わり者なんじゃないかと思ったからだ。
 「そうなのか? じゃあ、世界を変えたりなんなりってのは――」
 ジョンは俺の方を見た。
 「そう。お前の世界のハルヒだけだ」
 「……そうなのか」
 ジョンは話の方向を戻した。
 「お前の世界のハルヒが映画を見て、俺の世界に影響を与える。俺はこれを防ぐために、この世界にやってきたわけだ」
 なるほど、しかし、どこか違和感を感じる。ハルヒが映画を見たから、ジョンの世界に影響を与えた。そこまではいい。そしてジョンは、ハルヒが映画を見ることを防ぐために……って、時間軸がずれているじゃないか。
 「お前の世界に影響がでた時点で、ハルヒは映画を見たってことだろ? じゃあ、どうやってそれを防ぐんだよ」
 ジョンは少し考えてから言った。
 「俺の世界とここの世界の間では、時間軸はバラバラなんだよ。つまり、未来にも過去にも行けるってことだ。俺は、ここのハルヒがまだ映画を見ていない世界にやってきたのさ」
 俺は、自分の言っていることなのに、よく理解できなかった。
 「まあとにかく、ハルヒが映画を見ることは阻止できた」
 「お前たちのお陰でな。だから、もうじき俺の世界に2回目の影響がでるさ」
 「そうか」
 それは良かったな。
 俺たちは暫く黙った。長門は珍しく本も読まずに俺たちの会話を聞いている。俺はまた疑問に思った。
 「なあ、もうひとつ聞いてもいいか?」
 「ああ、いいぜ」
 「お前の世界では、お前はハルヒたちと親しいのか?」
 「……SOS団なんてものはないがな。それなりに親しかった」
 親しかった? 何で疑問系なんだ?
 だが俺は、敢えて何も聞かなかった。聞いてはいけないような気もした。
 「とにかく、お前たちには助けられた。俺もまさか追っ手が来るとは思わなかったからな」
 「追っ手が来たのか? というか、どれだけの人が世界の移動をできるんだ?」
 「ごく少人数さ。俺は多くの助けを得て、この世界へ移動した。まさか、他の人間がこの世界にやってこれるとは思わなかったさ。多分、いくつもの世界で俺を探したんだろうな」
 俺はとりあえず聞いていた。別世界の俺も、それなりに苦労しているようだ。
 ジョンは携帯らしきものを取り出して何かを確認していた。
 「……そろそろ時間だ。帰らないといけない」
 「もう行くのか?」
 「ああ、どっちにしろ強制返還されるのだけどな。まあ、もう少しこの世界を眺めてから帰るよ」
 「…………」
 俺は何を言っていいか分からなかった。そうこうしているうちに、ジョンはさっきからずっと立っている長門に近づいて行った。そして長門の手をとって言う。
 「長門。お前には本当に助けられた。ありがとう」
 「……別にいい」
 「そうか。とにかく……ありがとう」
 「…………」
 ジョンは長門の手を握り締めた。
 「何か、色々言いたいことがあったけど――いや、お前に言っても仕方ないな――俺は――――もう一度お前に会えてよかったよ」
 ――もう一度? お前の世界の長門はどうしたんだ?
 ジョンは立ち上がると、俺に背を向けてから言った。
 「じゃあな、俺。色々助けてくれてありがとな。もう会うこともないだろうが、会えてよかった」
 「まあ、他でもない俺の頼みだからな。俺も会えてよかった」
 ジョンはドアをゆっくりと開くと、後ろを向いたまま言った。
 「長門、お前は向こうみたいに、もう少し笑えよな」
 ドアが閉まる。
 教室には、俺と長門が取り残された。



/13

 どれだけの時間が過ぎただろうか。俺はぼんやりしていたが、暫くして長門に言った。
 「俺たちも帰るか?」
 俺は長門の方を見る。長門は遠くを見つめていた。俺はもう一度聞く。
 「……どうする?」
 長門は小さな声で答えた。
 「……帰る」
 「そっか。じゃあ帰ろう」
 俺たちは二人で帰る。
 もう、この世界のどこを探しても、もう一人の俺はいないだろう。

 俺は長門と帰りながら思った。
 自分の泣いている顔をみるのは嫌だなあ、と。



/14

 その日、俺たちが帰ってきたのはいつもの家ではなく、長門のマンションだ。
 俺は3日前、異世界から来た俺に、3日間ほど変わってくれと頼まれた。変わってくれというのはつまり、俺と変わって生活をさせてくれ、という意味だ。俺は最初あいつを見たとき、てっきり未来からやってきたのかと思った。だが、簡単な説明を聞いて、異世界からやってきたということが分かった。俺は少し――いや、実際は結構疑ったが、結局、もう一人の俺の言うことを信じて変わってやることにした。長門が問題ないと言ったのも大きな理由だ。
 そして長門は、暫くの間、自分のマンションにいるように言った。俺はもう一人の俺が心配だったが、何かあったら長門が助けてくれるというので、言葉に甘えて任せることにした。
 それで、俺は少しばかりの荷物をとりに長門のマンションに戻ってきたわけだ。
 しかし、このマンションも、三日間で大分慣れたな。ほとんど俺の家と同じような感覚だ。ものが極端に少ないのはどうかと思うが。今度長門を誘ってインテリア商品でも見に行ってみようかなあ。
 俺たちは7階の708号室に入ると、少し座って休憩した。特に話すことも思い浮かばなかった。だから黙ってお茶を啜った。
 もう荷物はほとんどまとめてあるので、すぐに出発できるだろう。
 もうそろそろ帰ろうかなぁ、と思いながらもどんどん時間は経過していった。
 いつのまにか外は暗くなっている。
 さすがにもう、帰らないと親も心配するだろう。

 ――――そういえば、あいつはどうなっただろうか。
 無事に帰ったのだろうか。
 ちゃんと、元の世界に戻れたのだろうか。

 …………あいつの世界は、元に戻ったのだろうか。

 どうしてだろうか、今更になって、様々な疑問が湧き出てきた。
 俺は隣を見る。長門は先ほどから本を読んでいた。
 こいつなら、全て知ってるんだろうなあ。
 「なあ、長門」
 「……なに?」
 「あいつの世界ってどうなったんだ?」
 長門は口を開きかけた――が、すぐには答えなかった。
 暫く沈黙が続く。
 俺は堪りかねて言った。
 「なあ、もしかして――」
 「彼の世界は元の状態に戻った。彼は無事に元の世界へ辿り着いた」

 長門は――聞いてもいないことまで話した。
 こいつは、いつだって必要なことしか言わなかったのに。

 それで俺は思った。
 ああ、もしかしたらあいつは、初めから消えるためにきたんじゃないか、と。
 あいつは、まるであの映画の主人公のように――

 そこまで考えて、ふと前を見る。
 長門が――どうだろう、よく分からないな。ちょっと、戸惑ったような、困ったような顔でこちらの様子を伺っていた。
 「あいつはあいつの役割を果たしたんだな」
 長門は今度は不思議そうな顔をしたが、すぐに頷いて言った。
 「彼は、彼の役割を果たした」

 長門は俺の言葉をそのまま繰り返した。