私のノスタルジア

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/00

 ここは、静かだ。まるで、嵐の過ぎ去った後のように。
 ズキン、と頭が痛んだ。
 「うっ……」
 俺はゆっくりと目を開ける。
 最初に見たのは、真っ暗な空間。この場所。ここは……どこだ? 俺は、何をしているんだ?
 ぬくもりを感じた。
 周りはこんなに寒いのに、体は暖かかった。この暖かさが、自分が生きていることを証明をしてくれた。少し、安心できた。
 少しづつ、意識がはっきりとしてくる。
 改めて状況を確認した。俺の体は、硬い地面に仰向けで横たわっている。目が慣れてきたのだろうか。真っ暗だった視界が、少し色味を帯びてきた。目の前に広がるものは、灰色の、天井。鉄板やら、鉄骨やらが、犇めき合っている。
 ここは……多分、工場の中だろう。古い、廃工場。家の近くに、こんな場所、あっただろうか。少なくとも俺の記憶の中には無いな。ハルヒなら知っていそうだが。
 ――――そうだ、ハルヒ。あいつは今、何をやっているんだろう。
 他の皆だってそうだ。朝比奈さん、古泉……。何だって俺は、一人で工場の床に横たわっているんだ。
 また、ズキン、と頭が痛んだ。
 このまま寝転んでいても、誰かが来るとは限らない。風邪をひくだけだろう。
 俺は頭を起こし、立ち上がろうと思った。
 だが、動こうとすると、頭に鋭い痛みが走る。

 ――――もう何もかもどうでもいいような気がした。
 喪失感。
 俺は再び目を閉じる。



/01

 二日前、俺は普段と寸分変わらない日常を過ごしていた。
 俺は例のごとく、SOS団に乗っ取られ、異空間と化した文芸部室へやってきた。
 コン、コン、とドアを二回ノックする。返事は無い。何だ、朝比奈さん、まだ来てないのか。と思ってドアノブに手をかけた瞬間、廊下の方で誰かが歩いてくる音が聞こえた。
 朝比奈さん――と、もう一人、古泉が仲良く一緒にやってきやがった。
 「おや、今日はお早いんですね」
 「…………」
 俺の中では、こいつの微笑んだ顔は見ていると自動的に腹が立つようになっているのだが、今日俺の腹が立っているのはもちろん意図的である。
 「こんにちは、キョンくん」
 朝比奈さんは涼しい笑顔で挨拶をしてきた。
 「こんにちは、朝比奈さん」
 古泉に腹を立てながらも、表面上はさわやかな笑顔で挨拶を返せる俺は、かなり心の広い人間だといっていいだろう。まあ、今日は朝比奈さんの笑顔に免じて許してやるか。
 朝比奈さんはドアを開けて、部屋の中へ入って行った。そしてその後ろを、古泉が付いていった。俺は、古泉の服を後ろへ、ぐいっとひっぱった。
 「どこへ行く」
 「もちろん部室の中ですよ」
 「お前は今から朝比奈さんが着替えるのを知って中へ入ろうとしたのか?」
 古泉は何か言おうとしてこちらを見たが、俺と目が合ってとっさに言葉を変えたようだ。
 「もち――いえ、ただの冗談ですよ。そんなことをしたら少なくとも二人以上には殴られそうですからね」
 何だ、分かってるじゃねぇか。分かっていて尚且つ、中へ入ろうとしたんだな。ということはつまり、お前は殴られたいのか?
 「いえいえ、それは、あなたが必ず止めると信じていたからですよ」
 お前に信じられても、嬉しくもなんともないんだが。
 俺たちは朝比奈さんが着替え終わるまで待った。暫くして、部屋の中から朝比奈さんの声が聞こえた。
 「ごめんなさい、お待たせして。もう入ってもいいですよ」
 俺たちは部屋の中へ入った。パイプ椅子を組み立てて、腰掛ける。朝比奈さんが、いつものメイド衣装でお茶を淹れてくれた。
 古泉が出してきた外国製のバックギャモンをやっていると、ドアが勢いよく開かれた。当然、やってきたのはハルヒであり、それはいちいち確認するまでもない。
 「やっほ〜」
 確認するまでもないのだが、ハルヒの声がやけに静かだったので、顔を上げて、ちらりとそちらを見た。
 「何だおい、まだ眠いのか?」
 ハルヒは、団長席に腰掛け、ふぁ〜っと大きなあくびをして言った。
 「そうなのよ。みくるちゃん、お茶」
 「あ、はい、すぐ淹れます」
 授業中、あれだけ寝て、まだ眠いのか。まあ、俺としては後ろが静かでよかったんだが。
 「涼宮さんがそんなに眠そうなのは珍しいですね。昨日は夜遅くまで起きてたんですか?」
 「徹夜したのよ。昨日の夜、家にあった本をなんとなく読んでみたんだけど、これが中々よくできてたの。私としたことが、つい読みふけっちゃって」
 といってハルヒは鞄から本を取り出すと、机の上にどすん、と置いた。それは、真っ黒な表紙の分厚いハードカバーだった。題名は、英語だろうか。よく分からなかった。
 よくこんなもの読もうと思ったな。まったく、ご苦労なこった。
 「はい、どうぞ」
 「ありがと」
 ハルヒは、朝比奈さんが淹れたお茶を一気飲みすると、その辞書みたいに分厚い本を俺に渡した。
 「何だ?」
 「キョン、あんたも読んでみなさい。SFものだけど、予想外に面白いから」
 残念だが、俺は必要なとき意外、本を読まない主義なんでな。こんな分厚い本、久しぶりにさわったぜ。
 ――――久しぶり? 俺は前にもこんなものを手にしたことがあるのか?
 「何よ、私が勧めるんだから、面白いことは分かってるでしょ? いいから読んでみなさい」
 「…………」
 ここで俺が何か考えて、発言したところで、結局状況の変化はないのである。だから俺は、素直に頷いておくことにした。
 「……ああ、分かったよ」



/02

 その日、俺は家に帰ってから、ベッドに寝転びながら本を広げ、適当にめくった。うーん、やはり俺には難しすぎるようだ。これを読破しようと思ったら、毎日よんで、少なくとも一ヶ月以上はかかるのではないだろうか。そう思いながら、ぱらぱらとページをめくっていると、不思議なことに気づいた。
 ページが、ところどころ抜けている。
 最初の方は何ページか白紙が続く。途中、全部空白のページもあれば、ところどころ文字がぬけているページもある。印刷が薄くて読めない箇所もある。
 「何だ、これは」
 ふと、背表紙を見てみる。題名は……書いていなかった。おかしいな。さっき見たときは書いてあったような気がしたんだが。
 ちょうどその時、ノックもなしに、突然部屋のドアが開いた。
 「キョンくん、シャミは〜? ってあれ、何やってんの?」
 「いや、見ての通り、本を読んでいるのさ。シャミならここにはいないぞ。多分リビングかどこかだろう」
 「へぇ、キョンくんが本なんて、めずらしいね」
 「まあな、だがその 珍しい光景を見れるのも今日が最後だ。やはり俺にはこういった類の物は向いていないらしい」
 まずその前に、この本は読めるかどうかさえ分からないのだが。
 「何か、全然似合ってないね」
 そのセリフは前にも聞いたぜ。そう、確か朝倉が言ってたんだっけ。朝倉――なつかしいな。俺が唯一ハルヒとまともに会話できるからとか言って、いつも俺にハルヒ関連の事を押し付けてきやがったな。でも、あいつがいなかったら俺はこんなにハルヒと仲良くなれなかったかもしれない。結構いいやつだったよな。できるなら、もう一度会ってみたい。
 あれ、そういえばあいつ、何でいなくなったんだ?
 …………そうだ、転校したんだ。親父の都合だったかな。
 「おい、もう遅いから早く寝ろよ」
 「は〜い!」
 妹はさっさと部屋からでていった。
 もう一度本を開く気にはなれなかった。この本のことは、また今度ハルヒにでも聞いてみよう。
 俺は本を床に置いて、そのままベッドでぼんやりしていた。
 そこで、ふと思った。
 本――分厚いハードカバー。俺はそれを、どこかで手にしたことがなかっただろうか。記憶をさぐってみる。しかし、いくら考えても、俺の記憶の中に思い当たる節はない。
 ……気のせいかな。今日は疲れた。早く寝てしまおう。
 俺は、机の上をちらりと見た。一冊の分厚いハードカバーが置いてある。俺は特になにも気にせず眠りについた。



/03

 次の日の土曜日。俺は急いでSOS団の集合場所へ向かった。というのも、朝早く携帯がうるさく鳴り響いたからだ。俺の中で、無視するという選択肢はもはや失われていたので、おとなしく電話にでることにした。まあ、なんだ。こんなこと言っても仕方がないのは分かっているが、できれば前の日とかに電話していただきたい。
 分厚い本を抱えて俺が集合場所に到着したときには、言うまでもなく全員がそろっていた。
 ……まさか、朝早く電話が鳴り響いたのは俺だけ、なんてことはないだろうな。
 「おっそ〜い、何であんたはいつもいつもそうやって遅れるのよ」
 ここで、「でも時間には間に合ってるぜ」などとは言わないのだ。そんなことを言ってもまったく無意味であることは、すでに実証済みだ。
 「何ごちゃごちゃ言ってんの? さっさと行くわよ」
 「行くって、どこへ?」
 敢えて聞いてみた。
 「あんたの罰金を払う場所に決まってるでしょ。早くきなさい」
 俺はハルヒの後姿を見つめた。今日のハルヒはどことなく元気がないように思える。気のせいだろうか。こいつの元気がないと、何か悪いことが起きそうで心配だ。
 だが、ここで俺が心配すると、逆にハルヒに気を遣わせるかもしれないので、黙っておいた。
 俺は朝比奈さんの顔を見た。朝比奈さんは、半分笑って半分困っているような、中途半端な顔でこっちを見ると、会釈をしてきた。俺は笑って会釈を返した。古泉が立っているであろう辺りから視線を感じたが、多分気のせいだろう。
 皆が席に着いてから、俺は先日から気になったことを聞いみた。
 「なぁハルヒ、あの本、お前が買ったのか?」
 「あの本って、昨日貸したやつ? あれは家に置いてあったのよ。多分私の親がもってきたものだと思うわ」
 「全部読んだのか?」
 「そうよ、だからあなたに貸したんじゃない。それがどうかしたの?」
 ああ、それが――と説明しようとしたが、俺は口をつぐんだ。ハルヒは本のことに違和感を持っていない。俺も最近、注意深くなってきたんだ。もしかしたらあの本は特別なのかもしれない。ここでハルヒにそのことを聞くのは黙っておこう。
 「いや、なんでもない」
 「ふ〜ん、あっそう。もう読んでみた?」
 「いや、まだだ。何せ、あの分厚さだからな。まず読み始めるのに勇気がいるだろ」
 「まあ、別にいいけど。私が内容を忘れる前に読んでよね」
 「分かってるって」
 やはりハルヒはどこか元気がないようだ。いつもの威勢が感じられない。
 俺の頼んだ、皆の中で一番安いジュースが、何故か一番最後にやってきたとき、ハルヒがお馴染みの爪楊枝を5本だしてきた。……5本? いや、分からない。とにかく何本かだしてきた。この爪楊枝は、印入りと無印のものがあり――まあいわゆるくじである。それで街を探索する組み合わせを決める、ということだ。
 まず俺が、その中の一本を引いた。……印入りだ。まあ、俺はたいていの場合印入りだからな、当然といえば当然なのさ。その後、ハルヒから順番に時計回りで引いていった。
 結果、俺と朝比奈さんが印入りで、あとは全員無印だった。
 俺が会計をすませて戻ってくると、ハルヒがこっちを指差して言った。
 「いい? 正午までに戻ってくるのよ? もしも遅れるようなことがあったら――」
 「その先は言わなくても分かってる。ちゃんと時間通りに戻ってくりゃいいんだろ?」
 「時・間・よ・り、前に戻ってくるの」
 へいへい、分かったよ。
 「じゃあ、私たちはこっちを探すから、あんた達はそっちをお願い」
 「了解。じゃあ、行きましょうか、朝比奈さん」
 「はい」
 朝比奈さんは笑顔で頷いてくれた。



/04

 俺と朝比奈さんは、何を言うでもなく、いつのまにか葉桜の立ち並ぶ川沿いを歩いていた。
 この道も、あと一ヶ月したら桜吹雪に逢うだろう。
 突然、朝比奈さんがスカートをたなびかせながら俺の斜め前にでて言った。
 「キョンくん」
 「はい?」
 「何の理由もなく、二人でこの道を歩くのって久しぶりね」
 「……そういえば、そうですね。ここを歩くときはいつも、未来関係のことを話すためだったような気がします」
 俺は、朝比奈さんの横に並び、その横顔をちらりと見た。朝比奈さんは笑っていた。
 「なんだか嬉しいです。理由もなく歩けることが」
 そう言われると、俺もなんとなく嬉しくなってきた。こうやって歩いていると、未来人や、超能力者や、―――のことが、まるで夢のように感じられる。
 「でも本当は、不思議の探索っていう理由がありますけどね」
 「ふふふ、そうですね」
 それきり会話が途絶えたが、俺は話のネタを探そうとも思わなかった。歩くこと自体が、楽しかったからだ。
 暫くして、いつものベンチが見えてきたので、俺は「座りましょう」と言おうとしたが、どうやらその必要はないであろうことに気づいた。
 朝比奈さんは何も言わずにベンチに腰掛けた。俺もその隣に座り、右手に持っていた本を膝に置いた
 そこで、朝比奈さんが聞いてきた。
 「それって、どんな本?」
 「ああ、これですか。うーん、なんと言いますか……」
 まあ、朝比奈さんにだったら、言っても大丈夫だろう。
 「これが何か変なんですよ、ちょっと読んでみてください」
 といって俺は、朝比奈さんに本を渡した。
 朝比奈さんは本を受け取ると、そっと開いて、ページをめくった。
 「最初の方は白紙です。もう少しめくってください」
 朝比奈さんは、何も言わずに本を読んだ。
 「…………」
 それから、暫くの間そこに座っていた。
 俺はふと右隣を見た。朝比奈さんは、ぼーっとしていた。さっきからページが進んでいないような気もするが、大丈夫だろうか。
 「朝比奈さん?」
 「…………」
 「おーい、朝比奈さん!」
 「……は、はい、どうしましたか?」
 「それはこっちのセリフですよ。さっきから目が虚ろになってますが、大丈夫ですか?」
 「あ、へーきです。ちょっと眠くなっただけ」
 「そうですか……それで、どう思います?」
 「え……と、何だか変わってますね。まるでおとぎ話みたいな感じ」
 おとぎ話? ハルヒはSFって言ってなかったっけ……まあいいか。
 「ところどころページがぬけてるの、気づきました?」
 朝比奈さんはページをぱらぱらとめくった。
 「はい、何だか薄くて読めないところもありますね」
 「これは、元々こういう本なのかなぁ」
 「よく分からないけど、ちょっと変ですね。題名も著者名も無いし……」
 「やっぱりおかしいですよね?」
 まあ、ハルヒが持ってきたものだから、少しくらいおかしいところがあっても不思議ではない。
 「……そういえば、今日は元気なかったですね」
 朝比奈さんは首をかしげた。
 「えっと……誰がですか?」
 「ハルヒですよ。気づきませんでした?」
 朝比奈さんはコクンと頷く。
 「何かあったの?」
 「それが、分からないんですよ……」
 突然、尻のポケットから振動が伝わってきた。携帯電話の表示をみると、「古泉いつき」となっていた。おのれ古泉、お前はこの場にいなくても邪魔をする気か。
 俺は朝比奈さんに一言断ってから電話にでた。
 「どうした古泉?」
 ――もしもし、聞こえますか? 涼宮さんが大変なんです! すぐに戻ってきてください!
 「ハルヒが? 何だってそんな……」
 ――詳しい事情は後でご説明させていただきます。とにかく今は、早く戻ってきてください。駅前でお待ちしています。
 「……分かった。すぐ行く」
 俺が電話を切ると、朝比奈さんが心配そうにこちらをみていた。
 「ハルヒに何かあったらしいです。すぐに戻りましょう」



/05

 「おい、どういうことだ、古泉」
 俺と朝比奈さんが駅前に着くと、古泉が立っていた。
 「どうやら、涼宮さんは風邪のようですね。今、車をよんで家に帰りました」
 「なんだ、風邪か……。お前も焦ってたようだし、事故にでも遭ったのかと思ったぜ」
 「そうですね、よかった……」
 朝比奈さんもとりあえず落ち着いたようだ。
 「すみません。こちらも状況が把握できていなかったもので。なにしろ、突然倒れたんですよ」
 「倒れたぁ? そんなに具合が悪いのか?」
 「はい、かなり熱があるようですね」
 そうか、だからあんなに元気がないように見えたんだ。でも、いくらハルヒでもそんなに具合が悪いなら休むだろう。
 「ハルヒはずっと熱を我慢していたのか? 俺が見たときは、そこまで具合が悪そうじゃなかったぞ」
 「どうやら、急に熱が上がったようです。本人もそこまで自覚していなかったみたいなので、僕たちがもう少し涼宮さんを気遣うべきでした」
 「まあ、今更いっても仕方ないだろ。とにかく、もう家には着いたんだな?」
 「はい、先ほどご自宅に電話をかけさせていただいたところ、無事に到着したようです」
 「そうか、じゃあ一安心だな」
 「はい」
 ハルヒは風邪なんて絶対ひかないだろうと思っていたから、少し驚きだ。他の皆にうつっていないか心配だ。
 「俺たちも、さっさと帰るべきだろう。うつされた可能性もあるし」
 「そうですね、私たちも早く帰りましょう」
 朝比奈さんが同意し、俺たちはそれぞれ別の道に分かれて帰った。
 その日の夜は何もせずに眠りについた。



/06

 日曜日、俺が目覚めたのは昼を過ぎてからだった。これで、日ごろの疲れは大分癒されたと思う。俺は、起きてくるのが遅いと文句を言う母親を横目に朝食兼昼食をとり、自分の部屋へ向かった。
 俺は本のことが気になっていた。
 鞄から本を取り出す。真っ黒の背表紙が目に入る。俺はそれを持って、ベッドの端に腰掛けた。
 今度は、最初からちゃんと読もう。
 ページをめくる。白紙。白紙。何だ、また白紙が増えてないか? 10ページくらいめくって、ようやく文字があった。

 「―――――――」
 「――――――」
 「―――――――」
 「――――――――」

 脳に浸透する文字。
 意識があるのか、ないのか。
 起きているのか、眠っているのか。
 区別がつかない。

 ――――キョンくん。ねぇ、起きてる?
 俺は、はっと目が覚めた。
 「キョンくん、そろそろ夕飯の時間だよ?」
 声が聞こえた方を見る。俺の妹が、不思議そうにこちらを見ていた。
 「…………すぐ行く」
 「早くしないと冷めちゃうよ〜」
 妹はそう言いながらドアも閉めずにでていった。あまり腹へってないな――って、夕飯の時間!? さっき昼を食べたばかりなのに。
 俺は顔を上げて、時計を見た。6時半。なるほど、夕食時だ。
 「…………」
 俺はそんなに長い時間本を読んでいたのか。
 手元の本を見る。
 ページは、一枚も進んでいなかった。



/07

 やはり、この本はどこかおかしい。
 夕食後、俺は、どうして気になるこの本のことを、相談してみることにした。
 ――――相談? 誰に相談するんだ?
 ハルヒ――いや、だめだ。あいつにはこういった不思議なことを相談するわけにはいかない。それに、風邪をひいているようだし。朝比奈さんには、昨日言ったが、いい回答が得られなかった。後は……後は、古泉? 他に誰かいなかったか。…………思い出せない。
 俺は本をかごに入れ、自転車を走らせていた。いつのまにか、駅の近くに来ている。公園があった。通り過ぎて、さらに先へ進む。
 俺はどこへ行こうとしている?
 何をしているんだ?
 こっちへ行っても、俺の知っているものはない。

 ――――大きなマンションがあった。
 ここが……何だ?
 ここに、何かあるというのか?

 俺は――俺はこんなところ――来たこともないし、見たこともない――
 だったら何故――何故、俺の脚はそっちをむいて――マンションの中へ入っている――

 「――――――――」

 俺は、いつのまにかマンションから出ていた。
 本は持っていない。俺は自転車にまたがって、暗い夜道を通り、家まで帰った。
 門の前に到着したとき、後ろから声が聞こえた。
 「こんにちは」



/08

 いつかの光景のように、超能力者がそこに立っていた。
 「古泉……」
 「わりと遅かったですね。お待ちしていましたよ」
 「こんな……こんなときに、何の用だ」
 「少し、お話がありまして。すぐ済みますので、ちょっと付き合ってもらえますか」
 まさか、またありえないタイミングでタクシーがくるのでは……と思ったが、あては外れた。古泉は、ゆっくりと歩き始めた。俺は自転車を置くと、古泉に付いて行った。
 夜の住宅街を暫く歩いていると、古泉は立ち止まり、唐突に言った。
 「あの本のことですが」
 俺も立ち止まる。
 やはり、そのことか。あの本には、何か特別な力があるんだな。
 「もうほとんどのことはご存知でしょうが――」
 古泉が俺のほうを見て言った。
 こいつは何を言っているんだ? 俺はまだ、何も聞かされていないはずだ……。
 「ああ、大体のことは聞いた」
 ――――俺は、何を言っているんだ。
 「そうですか、では、あの本が情報物質の構成を妨げる働きをすることも知っていますね?」
 「ウィルスみたいなもんなんだろ?」
 「はい、その通りです」
 「ハルヒはそれを読んで感染した。そして俺は、それを朝比奈さんにまで読ませてしまった」
 「そのことに関しては、仕方がありませんでした。彼女はまだ潜伏期間のようですが、もう少しすると発病するでしょう」
 「でも、そのことはあいつが解決してくれるって――」
 ああ、だから、あいつって誰なんだよ! 俺は、俺の言っていることが分からない……。
 「あのウィルスは、人間用に造られたものではないんですよ」
 「……どういうことだ? はっきり言え」
 「あれは、情報の蓄積にノイズをはしらせ、異常を発生させるものです。感染者が人間の場合、風邪のような症状を引き起こすだけですみます。しかし、これが□□□□□□□の場合、非常に大変な事態を引き起こします」
 「お前の話はいちいち周りくどいんだよ、それで、どうなるんだ?」
 「簡単です。存在できなくなるんですよ。つまりあれは、本来□□□□□□□のために造られた――」
 「あいつは解決できるって言ったんだ! あいつなら何とかしてくれるだろ!」
 「…………本当にそうでしょうか」
 「そうだ、あいつは…………嘘をつかない」
 俺は、小さな声でそう言った。声は震え、どこか自信がなさそうだった。
 「そうですか? ……あなたは、他人任せだ」
 古泉はそう言うと、前を向いた。俺はその後頭部を見つめていた。あいつはどんな顔をしていたのか分からないが、もう一度、小さな声で言った。
 「全てが白紙に戻る前に」
 俺は、立ち止まったままだった。
 古泉の背中が、どんどん小さくなっていく。
 俺は、何をすることもできず、暫くそこに棒立ちしていた。



/09

 俺は今まで、未来人や、超能力者や、―――――が関係する、たくさんの事件に巻き込まれてきた。
 だがそれでも、一般人であることに変わりはない。
 だから普通、俺は首を突っ込むべきではないんだ。
 ――――でも、どうしても無視できない理由があった。
 それが何か、今は思い出せない。
 思い出せないが、とにかく俺という存在は走ったんだ。

 それからどこへ行ったかは詳しく思い出せない。
 まず、マンションのような場所へ行って、それから駅前をうろうろした。
 とにかく、あちこちに行ったんだ。
 それで気が付くと、廃工場の床に寝転んでいた。



/10

 俺は再び目を開ける。
 回想を終えた。ここ最近のことが、どうしてもはっきりと思い出せない。特に、何のためにここに来たのかがよく分からなかった。
 そろそろ、体も冷えてきた。わずかに残っていたぬくもりも、消えかかっている。
 ――――このまま消えていいのだろうか?
 また、ズキン、と頭が痛んだ。そうだ、この痛さは、例のウィルスによるものかもしれない。俺も読んだからな、あの本。
 ハルヒと朝比奈さんも、頭を抱えているかもしれない。
 この体のぬくもりが消えてしまう前に……俺は、立ち上がった。
 ズキン、ズキン。体を動かすほど頭に響く。

 ――――でも、さっき分かった。
 喪失感。
 俺にはきっと、やらなければならないことがあるんだ。

 俺はやっとの思いで立ち上がると、一冊の本が目に入った。その本は、まるで捨てられたように床に置いてある。
 黒い背表紙。手にとって、ページをめくる。
 何一つ記されていない。全て白紙だった。
 「…………」
 俺は本を抱えて工場を出た。外は工場の中と同じくらい暗かったが、空にはたくさんの星が見えた。見ていると、夏休みの天体観測を思い出す。こんな都会でも、星は見えるんだ。
 いや、こんなことをしている場合じゃない。早く行かないと……。
 俺は、頭の痛みを堪えながら、海の傍に立ち並ぶ廃工場を通り過ぎた。そこでやっと気づいた。
 ――――行くって、どこへだ?
 ズキン、と頭に衝撃が走る。
 そうだった。それすらも分からないんだ。
 目的。
 俺は、大切なことを忘れている。



/11

 川沿いの土手、橋の下に一人の少女が立っていた。
 俺は、ゆっくりと近づく。
 少女はこちらを振り返った。
 「…………」
 白い肌に、感情の欠落した顔。ボブカットをさらに短くしたような髪がそれなりに整った顔を覆っている。
 少女からは、神秘的な香りがした。
 俺は頭が痛いことすら忘れていた。
 暫く見つめ合ってから、俺が口を開こうとした瞬間、少女は言った。
 「……なぜここに?」
 「俺は――」
 「記憶の消去は完了したはず。あなたが私を覚えている可能性はない。でも――」
 「ちょっと待ってくれ――」
 「でもあなはここへ来た。」
 「待ってくれ。その前にひとつ聞かせてくれ。――お前は誰だ?」
 オマエハダレダ
 「ここに来たのは偶然だ。お前が一人で突っ立っていたから、不思議に思って見にきたんだ」
 ココニキタノハグウゼンダ
 「俺は、探し物をしてたんだ。忘れたものを取り戻すために」
 少女は暫く沈黙してから答えた。
 「…………そう」
 その瞬間、俺は見た。少女の表情の変化を。
 それは、とてもわずかな変化であったが――――悲しそうな顔に見えた。
 「あなたは、私の知り合い。でも、もう会うことはない」
 「どういうことだ?」
 「私はもうここにはいられない」
 「何を言ってるんだ? お前は一体……」

 一瞬、雪が降ってるのかと思った。

 でも、すぐにそんなはずないと気づいた。もう三月だ。
 少女の周りには、白い粒が漂っていた。
 「…………」
 俺は呆気にとられていた。
 ただ、その白い少女を見つめていた。
 恐る恐る、近づいてみる。白い粒が顔に当たる。何の感触もない。
 俺は、手を伸ばしてみた。
 少女の、顔に触れる。
 何の感触も、なかった。
 「お前は…………」
 「さようなら」
 瞬間、少女は白い粒になって周辺に広がった。
 そしてその粒も、暫くすると薄くなり、やがて夜空に溶け込むように消えてしまった。



/12

 あれから一週間、俺はいつも通り学校に通っていた。
 ハルヒもすっかりと元気になった。朝比奈さんも、やはりあの後頭痛に襲われたらしいが、すぐに治ったようだ。
 あの少女のことは、今ではおぼろげにしか覚えていない。
 授業が終わると、ハルヒはさっさと、どこかへ行ってしまった。俺は、掃除当番を終わらせると、いつもの文芸部室へ向かった。今日は掃除が長引いたから、またハルヒに何か言われそうだ。
 いつものようにドアを2回ノックする。
 「はい、どうぞ」
 朝比奈さんの声だ。俺はドアを開く。
 そこで、見た。
 一人の少女がパイプ椅子に腰掛けて分厚いハードカバーを読んでいた。――もちろん、黒い背表紙の。
 「な、……」
 俺の鞄は右手からすべり落ちた。
 ずっと、忘れていたもの。
 ずっと、欠けていたこと。
 今、唐突に思い出した。
 長門。
 「長門!」
 俺は、彼女の元へ駆け寄った。
 「ちょ、どうしたの、キョン!?」
 長門は、パタン、と本を閉じて、こちらを見た。<メガネはかけていない>
 俺は、膝をついて、長門の両肩に手を置いた。
 「……無事だったんだな」
 長門は、いつもより少しだけ大きめに頷いた。
 「ねぇ、キョン、どういうこと? 有希がどうかしたの? 説明してよ!」
 ハルヒが何か言っているが、俺は無視した。
 「もう……大丈夫なのか?」
 「大丈夫」
 俺は、長門の頬に右手をやった。長門は、それにそっと手を添える。
 「よかった……」
 俺は後ろを振り向いた。ハルヒが怒ったような顔でこっちを見ているのと、古泉がにやついているのと、朝比奈さんが不思議そうに眺めているのが目に入った。
 「どうしたんですか、キョンくん?」
 「いや……やっと見つけたんですよ。俺の、大切な探し物を……」
 「何言ってんのあんた?」
 ハルヒ、お前には説明しても分からないさ。いや、これは俺にしか分からないんだ。
 俺はもう一度長門の方を見る。
 長門は、瞬きもせずに、ずっとこちらを見ていた。



/13

 もうそろそろ春休みだ。長い一年が過ぎ去ろうとしている。
 俺たちは、喫茶店でくじを引いた。俺と長門は印入り。もちろん、不正な行為はしていない。偶然だ。
 二人で市立図書館へ向かう。
 俺は、珍しく空いているソファに腰掛けた。すると、長門もついてきて隣に座った。
 長門は黒い背表紙の本を読んでいる。
 それには、英語で大きく題名が書いてあった。何て読むのか分からんが。
 「どんな話?」
 「SF」
 「中身はどうだ?」
 「面白い理屈」
 「……そうか」
 「そう」
 暫くすると、長門はパタン、と本を閉じた。
 「あなたに」
 「あなたにって、俺に貸してくれるのか?」
 「これは、元々あなたのもの」
 俺のもの――? よく分からないが、とりあえず受け取っておかなければならないような気がした。
 長門は俺に本を渡すと、ふらふらとどこかへ行ってしまった。
 俺はずっとその本を読んでいたわけだが。
 突然、尻のポケットから振動がした。携帯が鳴っている。といっても、誰かが電話してきたわけでも、メールしてきたわけでもない。俺がタイマーをセットしていたんだ。
 重い腰を上げて、背伸びをすると、遠くの棚で長門が本を読んでいるのを見つけた。
 俺は、長門を受付まで引っ張って行った。
 「この前つくったカード、あるか?」
 「……ない」
 「もしかして、なくしたのか?」
 「…………」
 俺は、カードを再発行してやることにした。
 俺たちは集合時間の30分前に図書館をでた。
 二人並んで歩く。突然、長門がボソッと何かをつぶやいた。
 「――――」
 「え? 何か言ったか?」
 「なにも」
 「そうか。じゃあ、ハルヒが文句を言う前にさっさと戻るか」
 長門は、小さく、コクンと頷いた。

 俺の右手には黒い背表紙の本が握られていた。